もりすの巣

そこにすべてのことが書かれています

ポップ体

息を吸い込み、吐き出す。それだけのことが難しく感じられる人間に、どうして会話などできましょう。私は私の声が恥ずかしい。

活字にフォントがあるように、声にもそれぞれの形があります。受け渡しは明朝体、一方通行ならゴシック体、そして角の立たない会話を好む私は、普段は手書き風フォントで話します。

だから誰かの耳に届いても、ひらひらと滑り落ちてしまう。言葉は箒で掃くまでもなく、跡形もなく風に吹き飛ばされてしまう。

それを心地良いと褒めてくれるあなたの、ポップ体の声がうらやましくてたまらない。明るく軽やかなその音色は、ポップな唇からしか生まれない。


うちは小さな料理屋だったから、両親とアルバイトの三人で店の切り盛りは充分でした。いろんな人が働いていましたが、印象に残っている女性となると一人しかいません。そもそも私が記憶している限り、うちで女性を雇ったのはあの一度きりでした。

彼女はのちに私が通うことになる高校の、元生徒でした。ちゃんと卒業したわけではなく、まだ年齢的には高校生で、むしろそれを誇るかのようなピンク混じりの金髪をしていました。うちの店は髪色は自由でしたが、その中でも異質な存在でした。

健全な小学生であった私は若干の近寄りがたさを感じつつも、彼女に興味津々でした。

まだまだ喫煙者に対して寛容な時代だったとはいえ、彼女はもうまったくの未成年でしたから、タバコは一応隠れて吸っていました。夜の休憩時間を見計らい、二階の窓から物置裏の用水路を見下ろすと、寒空の下にしゃがんでいる桃色の頭が見えました。


さぞ荒んだ娘なのだろうと思われるかもしれませんが、仕事中は鬱屈さとは無縁の、弾むようなみずみずしさを振りまいていました。よく通るいらっしゃいませの声は、部屋でイヤホンしながらゲームをしていても聞こえてきたものです。

アルバイトのお兄さん方とは仲良くなるのが当たり前という環境で育ってきた私でしたが、彼女に対しては人見知りを発揮してしまいました。今まで女性のアルバイトがいなかったせいもありますが、単に恐れをなしていたのでしょう。

彼女は皿洗い、配膳、調理補助のみならず、メニューのレイアウトにも取り組んでくれました。ごくまれに彼女は自宅には帰らず、うちで一夜を明かすことがありました。仕方なく離れの座敷を貸してやっていたのですが、そこでゲームをしたり工作したりするのを日課にしていた私は、仲良くもない人間にスペースを侵食され、追いやられることに不満を感じていました。

そんな離れの座敷で過ごす時の暇つぶしに、彼女はポスターカラーのペンでメニューのレイアウトを考案していたのです。長方形のローテーブルに両肘をついて、ストレートのピンク髪をスケッチブックに垂らして、ときおりペンを振ってカタカタと鳴らしながら、何時間も机に向かっていました。その様子を私が実際に見たのは一度だけですが、おそらくいつもそうしていたのでしょう。


家出少女のわがままで日課が阻害されることに我慢がならず、私はその日、離れに居座ることに決めました。

店の営業は夜十二時まででしたが、彼女は九時過ぎには上がって、座敷へやってきました。床に座ってゲームをしている私の背中に気づくと、彼女は馴れ馴れしく「うーっす!」と声をかけてきました。驚きにすくみ上がった私は返事をするタイミングを逃し、図らずも無視するような形になってしまいました。

彼女は気にすることなくローテーブルにスケッチブックを広げ、ポスターカラーをカタカタと振り、作業を開始しました。

そのとき遊んでいたゲームはプレステ2のモンスターファームで、育てていたのはダックンでした。私は心の中で、「違うの。いつもはもっとコロペンドラとか、バクーとか、デュラハンとかを育てているんだよ」と無意味な言い訳をしていました。育成助手のフレリアが幼稚な発言をするたびに、ちょっと黙っててくれないかなとやきもきしたのを覚えています。

「彼氏とかいないんですか」

なにをとち狂ったのか、私がほぼ初めて問い掛けた言葉は、ナンパ師のそれでした。

「別れたばっか」

こともなげに答えて彼女は顔を上げ、それが礼儀だと言わんばかりに同じ質問を返してきました。私は首を横に振り、つかみかけた会話の糸口を逃してなるものかと、二の矢を放ちました。

「いつからピンクなんですか」

彼女はきょとんと目を丸くし、質問の意味を呑み込むと、ああ、と机に落ちた髪をすくい、

「高校クビになる前から」

と笑いました。まるでとっておきのジョークみたいに。私もつられて笑いかけてから、いや、笑い事じゃないかもと逡巡し、まあ本人が笑ってるからいいかと肩をすくめました。やれやれ困ったお嬢さんだ、と口角を上げて。

モンスターファームをやめて、私は作業に没頭する彼女の向かいに座りました。


尋ねれば彼女は普通にキツめの身の上話をしてくれましたが、やはりそういうテーマは得意ではないのか、ほとんどがテレビとか音楽とかファッションの話に終始しました。今までのギクシャクがなんだったのかと不思議になるくらい、一瞬で打ち解けました。

いつか一緒に買い物に行こうという口約束は、結局タイミングが合わなくて叶わずじまいでしたが、おそらく私は彼女の文化には馴染めなかったことでしょう。たった一晩の会話だけでも、カルチャーの違いが身にしみてわかりました。

翌日も学校があった私はお風呂に入って、一度だけ離れを覗き、二言三言話してから部屋に戻りました。彼女はその時もまだテーブルにしがみつくように、女の子座りで背中を丸くして、ポップなアートに取り組んでいました。


別れたばっか。高校クビになる前から。

あの絶妙な軽さを私は真似できない。深刻な話になると口をつぐみ、吐き出してしまえば仰々しい書体にならざるを得ない私の言葉は、とても人様に誇れるようなものじゃない。

ポップ体で弾むように話す彼女の苦労話を、私はだからほとんど何も覚えていないのに、こんなにも鮮やかな色として記憶しているのでしょう。ピンク混じりの金髪として、暗闇に灯る小さな赤い点滅として、カチカチと振るポスターカラーの水色として。